昭和43年10月21日夜のご理解 



 お道で、ご結界とか、天地と同根といったような言葉がございますね、教祖の神様は天地の親神様が教祖を指して、天地と同根とまで仰っておられますですね。
 けどもその、結界というようなことでも、これはこの金光教だけの私は専売特許のようなふうに思っておったけれども、そうではないんですね。
 これは、もうあらゆる宗教に、それが言えることじゃなかろうかと思うんですけども。やっぱり仏教でもそれがあります。
 昨日、あの菊栄会の方達の、ダイショウジですか、に行くはずのが、道を間違えましてですね、手前から入ったもんですから、あのあそこはなんとかダイトクジですか、あ、ホンクド寺、ホンクド寺というところがある、あちらへ行きました。私が引き返そうと言うけど、いや、ここまで来たからせかっくあの有名なお寺さんだからお参りさせてもらおう、ちゅうて、参らさせていただいたんですけれど、それはもうは大変な大伽藍ですね。大きなお寺さんです。そしてあそこはその今でも生き生きとした、この信仰が、あの続けられておる、とにかく、この夜から参るんですね。そしてあくる朝帰って来る、というこれがその、あそこ、いわば開祖ですかね、何とか上人という、その時からやっぱ、そういう一つのまー、流儀ですよね。
ほでもう、上に滝場があって、滝の水を頂いたり、そしてその一晩中、おろうそくを立てて、そこでやはり御祈念のような、あの日蓮宗ですかね、やっぱ、確か何妙法蓮華経でしょう、けどもそこにもですね、やはり結界ということがあることですね。
 それからまたは、天地と同根といったような言葉を使ってございます。
ですから、あの天地と同根というのはね、エー、やはり天地の徳を受けた人、ですから、天地とのつながりをもってですから、やはり同根ですね。これは教祖御一人のものじゃないということです。ね、根が同じだということ。
 ね、天地とつながっておるということなんです。それを自分の身に、この生身に表した人を、徳者と私は言うと思うんですけど、ん、結界というのもやはり、この金光教、こうして形にあるのは金光教だけでしょうけども、そういう徳を受けた人がですね、その人間の世界と仏様の世界を取り結ぶ、やはり働きをなさったように思うんです、私詳しく意味は知りませんけれど、やっぱあるんです、そういうのがですね。
 ですから、そのやはり難儀な氏子の取次ぎ助けがでけられたわけなんですね、徳を受けられた方が。あちらで私あの、ん、まあ、そういうひとつの礼状ですが、お参りさせて頂いて、境内におりましたら、あの、桜の花が咲いとりますもん、下に、してそこに立て札が立っておるのがですね、あの、この、大伽藍が建立される時にですね、か、そこの上人様が亡くなられた時かでしょうか、その老婆が、一老婆がね、その献木をしたんです、なんも自分は御供えするものが無いから、というて桜の木を献木した、それから、あの、お上人様が亡くなられた月の、十月から十二月までの間に桜が咲くようになったと。
それがやっぱり、んなら、もう、百年あまりになるでしょうか。あの、お寺さんが建立されて、ね、それから、やはり咲き続けておるという。しかも四月の月には、また満開になるそうです。ね、それを私見てきたばっかりだったもんですから、余計、感心を深くしたんですけれども、今日、新聞を見よったら、新聞に出てましたですね、桜の花が咲いておるところ、してその訳柄が書いてございました。
 それを見せて頂いて、私は、ほー、こげなつがやっぱあるばいの、ちみながい言いよりますから、私はやはり天地につながっておる、ね、大変なやっぱこれだけの、建立なさるからには徳を受けられた方であったに違いない、と私は思わせて頂いてから、これはね、これが天地が自由になんなさっておる印をね、上人様のために神様がこうやって、仏様がいうならば、天地が見せて下さる姿だと私は話したことでした。ね。
 そして話よりましたらです、あの、正義さんがこんなことを言うたですもん、「先生、家にもこれと同じようなことがありますよ」ちゅうとですよね、どしてや、ちゅうたら「この頃、夏、親先生に来て頂いたでしょうが」そのあそこに石庭ができた時にですね、あの石庭を披露をしたいというので、菊栄会の者が、五、六人で参りましたんですね、夕方から、迎え来ましたですもん。なるほど見事な石庭がでけています。それで私はそれを、石庭を見せて頂いて、「あの正義さん、岩と岩あそこん間んところにね、赤いもの、いうならば、紅葉するものね、赤く、あの辺に赤いものが一つ欲しいね」「先生仰ったでしょうが、」「あ、言うたよ」「ところが先生、あれから間もなくですね、なんとかという木がね、葉があこうなって今でも落ちない」ち、だから、こりゃ、おそらく一年中、「親先生がここに赤いものが欲しいと仰ったところにか赤いものが、赤くなっておるでしょう」と、今日、言うんですよね。
 わたしはそれでもやはり、言うならば、私の言葉の裏付けをして下さったんだと私は思うんです。それだけのおかげを頂いてどうしてお届けせんの、と私は言うたことでした。
 ね、ですから、結局どういうことになるかというと天地と同根だということです。
 ね、天地とつながっておる、根が同じだ、だから天地がいわば、青いものを赤くしてくださろうね、四月に咲かないものを十月か十二月までの間に、咲かせるといったような、私は働きもできることは不思議じゃないと私は思います。
 ね、それを思うときに、私共がいかにお取次ぎを頂いて、いわゆる御結界、ね、神様の世界と氏子の世界を取り結んでいただくところの働きがここでなされますから、それを頂いて、ただおかげを受けたというだけではなくて、そういう天地と同根と、お互いが言われ、思われるようにですね、これはあの、天地のつながりというものを頂いていくことの楽しみの信心が必要だと私は思うんですね。
 今日、私、昨日見てきたばっかりの、その桜を今日の新聞で見て、その感をなお強うしたんですけれども。ね、どうぞ私共も、天地が自由になる、ということはもう天地とのつながりがでけたということなんですから、そういうおかげを頂いていきたいと思うですね。どうぞ            大坪かよこ